社長の声
2011年9月22日 木曜日

革新的技術開発


 


9月度より大きな研究開発プログラムがふたつ同時にスタートしました。


ひとつは、永年の課題であった「硫黄加硫ゴムの離型に有効な表面処理技術の確立に向けた詳細なデータ取りおよび技術改良」です。


10年越しで進めてきた研究成果の集大成をこのプロジェクトで纏め上げ、そして世の中に広め、貢献して行きます。


もうひとつは、詳細は現時点においてここでは公開できませんが、金属塩水溶液からは得ることの出来ない、例えばレアメタル、或いはカーボン、リチウム等の元素を電気化学的に還元し、表面処理として用いることの出来る技術の確立です。


この技術に関しては、現在私の通う同志社大学大学院に研究室を開設し、弊社社員2名、研究所員2名、大学院生3名、大学教授2名のプロジェクト構成で行い、より学術的にまとめていく構成を考えています。


特にこの技術は過去に例を見ない、まったく新しい観点での表面改質技術であり、大きな未知の可能性を秘め、成功すれば世界初となる画期的な技術です。


二年後をメドに工業化することを目標とし、大きな社会貢献をしていきたいと思っていますのでご期待ください。


 

2011年9月16日 金曜日

梅雨になると思い出すこと


 


~石松君との別れ~


 


そんな状況が一時間近く続いたそうですが、父が「とにかく一旦みんな落ち着いて次の連絡を待とう!」と家族を落ち着かせ、何気なくふと石松君を見ると、さっきまで吠えて走り回っていたはずなのに、ぐったりと横たわっている・・・。


抱き上げてみるとすでに息を引き取っていたそうです。


そうとも知らずに、翌朝目を覚ました私は、昨日までの状態とは一転して、嘘のように吐き気はしないし、めまいも無く、熱も下がって普通にベッドから起き上がることが出来ました。


おまけに食欲も出て強烈な空腹感を覚えました。


「昨日までの状態は一体なんだったんだろう?」と思うくらい一気に回復したのです。


さぞかし心配しているであろう家族にこの回復した状態を伝えなくては!という気持ちと


その反対に、これだけあっけなく回復したことを伝えるのもなんか嘘をついていたように


思われるのでは?という複雑な気持ちになりました。


でもともかく電話を入れ「何とか回復に向かった。もう心配ない。」とだけ伝え、電話を切りました。


その後は勿論、完全に回復し、残りの旅行を続けました。


私が石松君の死を知ったのは、数週間後に無事日本に到着したときです。


旅行中に心配させてはいけないという家族の配慮でした。


自宅に戻ったときにはすでに石松君は庭の土の中、「石松の墓」という墓標に手を合わせることしか出来ませんでした。


間違いなく彼は私が助けた彼の命と代替に、私の命を身代わりとなって私を助けてくれたのです。


家族には一切のお土産は買えなかったのですが、唯一石松君に買ったアメリカ製の星条旗の首輪を一緒に埋めてやりました。


この世に生まれて、すぐに交通事故に会い、片目や片足、アゴを失い、声も失い、でも一生懸命生きることを私に教えてくれたのに、私を救うことで自らの命を差し出してくれた石松君の一生は本当に幸せだったんだろうか?


そのときは悩みました。


でも、限りなく短く壮絶な彼の生き様から、何かとてつもなく大きな命の大切さを学んだ気がします。


あれから数十年の歳月が流れましたが、石松君の教えてくれたこと、今でもしっかりと私の胸の中にいきづいています。

2011年9月7日 水曜日

梅雨になると思い出すこと


 


石松君と過ごして数年経ったある日、私は学生時代の最後の思い出として、「アメリカ縦断ひとり旅」を実行しました。


所持金はわずか数万円、ほとんど計画の無い行き当たりばったりの旅で、基本理念は「どうにかなるさ」。


とにかく予算が無かったものですから、大韓航空の格安航空チケットでまずはソウルへ向かい、そこからドバイ経由でロスアンジェルスまで19時間かけてアメリカ入りするという今では考えられない旅行の始まりでした。


なにせ強烈な貧乏旅行でしたので、一日一食は当たり前、結果50日間アメリカに滞在したのですが、まともに屋根の下で眠ったのは10日ほどでしょうか?


その間、命の危険を感じることも含めた色んな体験をしたのですが、ある日、メキシコ国境に近いパサディナという街で運悪く豆料理に当たってしまいました。


強烈な腹痛と熱、上げ下しが数日も続き、終いにはまともに立ち上がることも出来ないほど衰弱してしまいました。


当然お金も無かったので病院に行くこともできず、さすがに心細くなり「ヘタするとここで僕の命も終わりかな?」とまで思うようになりました。


旅行中、一度も自宅に電話することは無かったのですが、さすがにここは一本電話を入れるべきだろうと思い、意を決して電話を入れ「今居るのはパサディナという街の外れの一泊2ドルの安宿。で、健康状態はこうこうで最悪。もしなんかあったらここへ探しにきて。状況は随時連絡する。」とだけ伝えました。


今思うと、電話に出た父にとってみるとたまったもんじゃなかったでしょうね(笑)


父は家族の手前、平静を装うのに必死だったようです。


しかし、事態の異常さに気づいた家族は大騒ぎ。


母は泣き崩れるし、祖父は「今からワシが迎えに行く!」と言い出すし、それはそれは大変な修羅場だったそうです。


尋常じゃない家族の状態を気づいたのか、石松君も「ブヒブヒ」と走り回っていたそうです。