社長の声
2012年10月22日 月曜日

久しぶりに「体育会の血」が踊る、体の芯から感動したお話をしたい。


 先日、私の甥っ子が所属するある公立高校のアメリカンフットボール部が、秋の公式戦で全日本高校チャンピオンチームに挑んだ試合のことである。


実はこの感動のストーリーは、約半年前から始まっていた。


対戦相手はここ数年何度も日本一に輝く、高校アメリカンフットボール界では群を抜く強豪校、素晴らしいコーチングスタッフ、練習環境は勿論のこと、選手層も厚く、多数の優秀選手を輩出する名実共に日本を代表する優秀なチームである。


一方、甥っ子の所属する高校は大阪府下でも有数の進学校であり、少ない部員数に加え、全員が受験を目指し、練習時間にも制限があり、またグラウンドは水はけが悪く雨が降ると二日間は使えないと言うような、劣悪とは言わないが決して整った環境とはいえない。


そんなチームが半年前の抽選会でこの強豪校と同じ予選組に入ってしまったときからこの感動の物語が始まった。


彼らは本気で「この強豪校に勝とう!」と話し合い、誰に強制されるわけでもなく、自主的に大きな目標に向かってキックオフした。


例年、進学校であるが故に、春の大会が終わると三年生全員が引退し、受験勉強に専念する。


ところがこのチームは違った。三年生全員が秋まで残って戦う!と誓い合い、受験勉強とフットボールの両立に、残りの高校生活を賭けた。


この半年間の彼等の生活は、通常の日々の授業が終わると、夕方まで練習、一旦家に帰って急いで夕食を採り、そのまま深夜近くまで塾に通い、戻ってきて寝るまでの間、三年生が集まって自主トレーニング・・・と言うような繰り返しをひたすら続けた。


そして、試合前一ヶ月には、これまた異例中の異例、三年生全員が頭を丸めて勝利することを確認し合った。


私はここまでの彼らの行動を見て、心底感動した。


これだけ多様化して選択肢の多い世の中に、ましてやあの多感な年頃に、自分の身を戒めて苦しいことに自ら立ち向かっていこうとする彼等の勇気ある姿に、こういう若者がいる限りまだまだ日本は大丈夫だ!、とも思った。


しかし、残酷ながら私の拙いヘッドコーチ経験からしても、現実は「うまく行って21対7、へたするとコールド?」と言うのが正直な予想だった。

2012年10月15日 月曜日

その37に引き続き、尖閣諸島問題に関する所感だが、ここのところもっぱらの話題はこの尖閣諸島問題である。


どなたとお会いしてもまずこの話題になる。


しかし、最近気になるのは「あの中国国内での暴動によって、またふたたび仕事が日本に戻ってくることを期待している。」という声がやたら多いことだ。


戻ってくるものを拒まない寛大な精神は必要であろう。


がしかし、「世界経済の大きな流れ、技術革新の大きな流れ」と言う観点に立って考えたとき果たしてそれらの期待は如何なものかな?と思う。


世界の経済や技術の流れは、水の流れと同様、高いところから低いところへと移っていくものと考える。発展途上国が先進国に学び、いずれは経済発展し国民の生活が安定する。次は貧困国が発展を目指し、より良い生活を過ごせるよう努力する。その基盤となるものが技術革新であると考えている。すなわちバトンの引渡しである。


中国へ流れた仕事は、必然的に流れたもの、すなわち大きな世界経済の流れに従って移行したものである。


「国内空洞化」と言う言葉を聞いて久しいが、それは我々日本人が先進国の一員として永い間、同じ椅子にどっかりと座りすぎた結果なのかもしれない。


よくよく考えてみると、戦後の焼け野原から立ち直り、目覚しい経済発展を成し遂げた我々日本も、アメリカを始めとする先進国の技術を取り入れ、より安く高品質なものを世界に発信したからこそ成しえた発展であったはずだ。


大きな経済の流れで必然的に去っていったものに対して戻ってくる期待をする前に、次世代のために、次々世代の子孫のために、世界に通用する技術の遺産を今を生きる我々は残す努力を惜しまないことの方が先決だと強く思う。


 

2012年10月9日 火曜日

ここ最近、日本を取り巻く国際問題が烈火しているのはご承知の通りだ。


日本政府の交渉術のお粗末さにはあきれ返ってしまう。


私は政治のことはよく解らないが、いわゆる尖閣諸島問題のような難問は一般社会を生きる我々にも常時降りかかっているような事にも思える。


ひとつの問題に対し、その結末は必ず勝者と敗者に別れる。それはそれで結構なのだが、出来れば勝者も敗者もお互いがしこりを残さない勝ち方、負け方をすべきではないかと思う。


すなわち、結論を出す前の対話があまりにも無さすぎるように思うのである。


最後はFace to Face、お互いのトップ同士が結論に至るまでの過程について重々、何度も何度も話し合うことがどうも欠落しているように思えてならない。


お互いの弱点を突くための情報収集については当然水面下で進めることは作戦として大いに遂行すべきである。


しかし、一旦出てきた情報に対して一方的に「それが最終結論」としてただ単に相手に投げつけるだけではしこりが残って当然である。


大国が小国に対して繰り返してきた歴史が、戦争の歴史と合い重なるように思えてならない。


一国の主たるもの、正々堂々と自論をぶつけ、相手と納得行くまで議論する勇気さえあれば、世の中から戦争は消えるだろうし、一般社会でのくだらない論争も消えていく平和な世の中が築けるのに、と言う単純な意見は今の世の中には通用しないんでしょうかねえ・・・。